谷中村 記録からよみがえる姿 


5.合併から現在へ(1) 〜合併決定と買収〜

 明治35年(1902)3月、政府は第二次鉱毒調査委員会を設置します。同年11月28日の第8回委員会で、「…水溜ヲ作リ以テ之ヲ利根川ニ流出スルコト…」との意見が出されました。この「水溜」こそ遊水地です。同年12月19日の第10回委員会で、「…先ツ藤岡ノ決壊点ヨリ赤麻沼ヘ引水シ之レヨリ谷中村ヘ流入スルノ計画…」として遊水地の設置計画は具体化して「谷中村へ流入」という谷中村遊水地化が表面化してきます。そして、翌明治36年3月、第二次鉱毒調査委員会は足尾銅山に関する調査報告書を政府に提出します。

 これを受けて、明治37年(1904)12月、栃木県議会では485,398円の谷中村買収費を含む臨時土木費785,000円の予算案を可決。結局これが実質的な谷中村の藤岡町への合併へと向かう分岐点となりました。しかし、ここでいう買収とは谷中村全体でなく、堤防で囲まれた堤内地(約1000町歩)を指します。翌明治38年3月、栃木県は「告諭(こくゆ)第2号(右上写真)」で谷中村の遊水地化と村民の移住方針を告示します。この時から遊水地造成のための作業が始まりました。

谷中村民に移住を求める栃木県知事告諭写(個人蔵)
谷中村民に移住を求める栃木県知事告諭写(個人蔵)
 堤内地の土地物件の買い上げが知らせられると、強力に買収が推し進められました。明治35年(1902)から渡良瀬川下流の改修構想が具体化しますが、当時、渡良瀬川は国の直轄河川でなかったため、遊水地予定地の買収は栃木県が担当し、国がそれに補助を出すこととなっていました。これにより谷中村民は親戚縁者を頼って周辺の町や村へ、または団体で栃木県那須郡の国有林などへ移住し始めました。翌明治39年6月末までに約300戸が移住しています。主な移転先は、古河町、藤岡町、野木村、海老瀬村(現、板倉町)、川辺村(現、北川辺町)など、近隣町村でした。なかには同じ谷中村の堤内地から堤外地へ移転する家々もありました。

 明治39年(1906)5月、栃木県は「告示第176号」で谷中村を廃し藤岡町へ合併する告示(こくじ)を行い、7月、谷中村は実質的になくなりました。このような栃木県の方針に対して、買収反対派村民は抵抗を重ねます。そこで翌明治40年1月、栃木県は堤内地に土地収用法を適用、いっそう強硬に買収に乗り出しました。そして同年6月29日から一週間にわたって、堤内地に残る村民に対し家屋を破壊するなどの強制執行を行いました。しかし、家屋を失った16戸は、仮小屋を建てて強固に抵抗し続けました。翌明治41年には堤内地に河川法が準用され、工作物の設置や土地の占有が許可制となります。ここに掲げている旧谷中村民の写真は、強制破壊を受けても抵抗を続けた村民たちの様子です。よく誤解されていますが、谷中村全体がこのような生活をしていたのではありません。
(左)下宮古川 竹沢勇吉仮小屋(佐野市郷土博物館所蔵)、(右)内野高砂、茂呂松右衛門仮小屋(佐野市郷土博物館所蔵)
下宮古川 竹沢勇吉仮小屋 (佐野市郷土博物館所蔵) 内野高砂、茂呂松右衛門仮小屋 (佐野市郷土博物館所蔵)

目次に戻る はじめに          おわりに このページのトップ